観れる、ということ
(2008-07-21)
公開以後、80年代に一度VHSが出たっきりで長年日本では観ることが出来なかった作品でした。10代の私が知っているのは作品のおおまかな情報だけで、ずっと観たかった作品でした。先日の「靖国」とか、極端な話になりますが、核を扱った映画があるとすぐに「発禁にするべき」などと言う人がいるらしいですが、表現の自由云々の前にそもそもこの国で観たい映画が観れないという状況はおかしいです。その点、ソフト化された事自体に価値があると思います。
実際に観てみると正直言って映画そのものは公開時のキャッチコピーが全てで、それ以上の何でも無いという少しがっかりなものではあった(まぁそもそも今の観点からすればこの映画特に禁忌を犯しているわけではないように思うのですけど)のですが、何よりも観ることができたという事が嬉しかったので。
純粋な信仰の果てに
(2008-05-06)
厳しい寄宿学校の生活で規律ある生活を送る二人の少女、
アンヌとロール。
しかし、それとはうらはらに、彼女達は押し付けられた
既成の価値観(宗教及び階級的規範)に対する反逆を誓う。
テキストはボードレール「悪の華」。
彼女達は周りにいる弱者や動物に対して、悪の限りを尽くす。
それは、とてもいたずらで済むレベルではなかった。
しかし、同時に彼女達は弱く脆い人間である。
ガス欠で立ち往生する中年男の前で裸になって誘惑し、
我慢できず襲いかかってきた男を撲殺した時の二人の
うろたえぶりは他の人々と変わらない。
殺人を犯した瞬間に見せたのは、どこにでもいる少女の
顔であった。
この時点では、彼女達の行動は遊戯の範囲を抜け出して
いなかったのである。
処分に困った死体は近くの湖に沈めてしまうが、
いずれはバレてしまう。
逮捕されれば収監されてしまうだろう。
それは、彼女達が最も嫌った価値観に屈服することである。
彼女達はひとつの選択をする。
他人を介さず、自分達の手で処分を下す。
遊戯の範囲を超え、強固なる意志を示すのである。
自らの服に火をつけて皆の前で焼死することで、彼女達は
自分達の「悪の華」に殉じるのである。
それは、誰にも侵されることのない信仰の完成であった。
あまりにも哀しい、二人の娘の 「危険なあそび」の結末
(2008-04-05)
フランス語の会話は美しい。
寄宿舎で仲の良き二人の少女。アンヌとロール。アンヌがロールを支配する。そう、女子の寄宿舎には男役と女役がやはりあるのだ。
これはやむを得ない。
仲の良い二人。二人の両親も了解している。
そして、夏休み。
アンヌの両親は長期の旅に出た。
聖体を飲み込ます ためている。
シスターのキスシーンをのぞき見し、神父に告げる。これは、神父に告げ口する。
これらは、日常してきたこと。
娘二人は 大人達にとっての反モラルの世界に一挙に飛び込んでいく。
牧童を誘惑し、牛を逃がす。
庭師の小鳥を殺す。
放火。
庭師を誘って悪魔の儀式。さらに、湖で庭師を突き落とす。
ガス欠の男を屋敷に誘い、挑発し、頭部打撲し殺してしまう。死体を湖に沈める。
夏休みはおわった。
学校で二人は刑事から聴取される。
最後は学芸会で、ボード・レールの詩を朗読。そして、自らの服に火をつけて皆の前で焼け死ぬ。
あまりにも、悲しい。
誰でも、抑圧・拘束が長期化したら、自由を求める。
そんな、社会状況下に娘たちはいた。「危険なあそび」か。少女たちの「危険なあそび」は、「汚れ無き悪戯」を 思い出す。あるいは「悪い種子」を思い出す。
子どもたちは自由を求める。それは、悪戯だったり、危険な遊び、大人が教える抑圧への反抗というカタチをとる。
そのどこが悪いというのだ。現実と空想もはっきり峻別できない。生と死も判別できない。おのれたちの独自の世界を創るのだ。
映倫でこの作品が上映禁止、海外輸出禁止の処置がとられた。
カトリック教徒にとっては、絶対許されない作品であったのだろう。
私はカトリック教徒では無いから十分にはわからないが。
しかし、少年時代、青年時代の自分を思いかえすとこの作品は自然に私の感性に入ってくるのである。
「凄惨な末路」ではない
(2008-04-04)
内容を細かく綴る気は無いが、これは「主人公たちの凄惨な末路」を描いた映画では決して無い。
たとえばデヴィッド・クローネンバーグが監督した『ビデオドローム』のラストを、バッド・エンドと解釈するだろうか? あれは紛れもないハッピー・エンドなのだ。
ラスト、少女たちは「敵」に負けなかった。
恍惚たる表情を浮かべ死んでゆく少女たちは、確かに勝ちに等しいものを手に入れたのである。それを描き切ったからこそ、これは名画なのだ。
初めから負けの決まった戦い
(2008-04-02)
監督は何を仮想敵としてこの映画を撮ったのだろうか。すぐに「キリスト教」という答えが返りそうである。偽善的な教えに敢然と抗い、人間性の邪悪な面を公然とさらしたかったのか。
人間はこれほど悪魔的になれる。最低な行動ができる。そうアピールしたいだけならば、この映画は目的を完全に達している。見終わって暗澹とした気分に観客を追い込みたいならば、公開時の映画館の空気はまさにそのようなものだった。
さて。主人公たちのどこか貧乏くさい末路を見ることと、この映画の評価とは、相似た関係にあると思う。
この映画は、監督の「助けを求める叫び」と解釈するなら、少し理解できる気がする。
「ぼくには人間の中に、こんなに怖ろしいものが潜んでいる気がして、しかたないんですよ。
ねえ、そうでしょう?」
しかし観客は医師ではない。監督の親ではない。妄想に困ったら、映画を撮るよりもまず自分を大切にあつかうほうが賢いと思う。