「選択」の問題。
(2007-10-21)
再び、「近代」VS「前近代」の構図に基づいてレヴューをする。
永瀬の演ずる主人公は、あるポイント、ある「時点」で、ラストと
同様の「生き方の選択」が可能だった。松たか子を、嫁ぎ先の商家から
引き取り、彼女が健康を回復した時点で、宗蔵は侍の身分を捨て、
松の演ずる、農民の娘きえと共に、蝦夷に渡り、商人に。
勿論、主人公が、こんな選択をしたのでは、「剣の果し合い」も
「鬼の爪のシーン」も「西洋式の軍事調練」も、その後、描かれる事は
無く、「映画」として、成立しない。
しかし、近代人ならば、「個人の『自由意思』によって功利主義に基づく
『合理的な選択』をする」のは、当然であり、自分の「生き方の選択」を見て、
他人が如何言う「気持ち」に為るか等と言う事は、一切、関知しない。
だが、前近代人の宗蔵には、「生き方を選ぶ」、詰まり「選択」と言う概念が存在しない。
挟間との決闘や、家老の緒方拳との確執の後、漸く、「侍の身分を捨てよう」
と言う「気持ち!」に為って、「実際の行動」に移す。同時に、1860年代と言う、
其の時代に相応しい「近代人」と言う「生き方」が実行できる様に為り、松の演ずるきえとも
結ばれる。そうして見ると、最初は「前近代人」だった宗蔵が、ラストでは
「近代人」として生きて行く様になるまでの、「変化のプロセス」を
描いた「映画」だとも、解釈出来る。だとしたら、「『近代人』にとって『武士道』とは?」
と言う形で、「日本人にとって『近代的自我』とは?」と言った「夏目漱石的問題」を
「『転倒』させて見せた」作品なのかも知れない。・・・「鬼の爪のシーン」での
宗蔵は、殆ど8割方、「近代人」として行動していたと考えて良いだろう。彼個人の
「自由意思」に基づく行動だからだ。・・・また、明治近代文学開始以前に
勝手に、とっとと「近代人」に為って仕舞った人間が、幕末期に居ても
本人にして見れば「何ら問題が無い」。自分の人生だからだ。それこそ「近代的自我」の
持ち主ならば、全く「遠慮」なぞしないだろうし、「夏目漱石の事なぞ
知った事では無い。俺は俺だ。」と言った所か。・・・
ラスト・シーンは確かに「ハッピー・エンド」である。しかし、豪い遠回りだった。
『清兵衛』が「家族の絆」を描いているので、アメリカ人には『鬼の爪』よりも
「受けが良い」等と良く言われるが、一部のアメリカ人には、19世紀後半に
新天地の蝦夷に渡り、「近代人」として生きて行こうと「選択」した宗蔵を、
ほぼ同時代に、ヨーロッパから、新天地アメリカへと渡って生きて行こうと「選択」をした、
自分達の先祖の姿に「重ね合わせて」見て居る者もいる。
但し、少数派かも知れない。今年4月に亡くなったカート・ヴォネガットが、
ブッシュ・ゴアの双方を「歴史についても『無知』で、異文化に対する理解も無い
ボンボン政治家が2人居るだけに過ぎない」とボロクソに言っていたのは、
そう言う「文脈」の中で、とも受け取られる。
勿論、宗蔵や当時のヨーロッパ人にとっての「フロンティア」には
既に、先住民が、独自の文化と歴史を持って自分達の生活を
営んでいたのは、当然の事である。
『たそがれ清兵衛』の劣化版、期待感もなくだらだらとした展開…
(2007-05-20)
『たそがれ清兵衛』につづく山田洋次監督時代劇第二弾。原作は藤沢周平。『たそがれ清兵衛』はすごく好きだし、良くできた作品だと思うが、だからといってここまで同じようなものを作らなくてもいいのでは? と思う。主人公の性格とか境遇とか、設定にいろいろ違いはあるものの、ストーリーの流れが同じで、なんだか先が読めてしまう。下級武士の慎ましい暮らしぶりの描写も『たそがれ清兵衛』と同じような感じで、はっきり言って退屈してしまった。
メインは、主人公の片桐が、狭間という剣仲間と果たし合いをさせられる話。それに、片桐の家の女中が嫁ぎ先でいじめられ、連れ戻すという話がからむ。男と男の戦い、そして男女の心のふれあい。映画としての要素は十分だが、盛り上がるべきシーンが欠如している。なぜ、片桐と狭間が御前試合をして、3−2で片桐が勝った(が実はそれは狭間が勝ちを譲った)という、見せ場になるようなシークエンスを、セリフだけですませてしまうのか。実際に片桐が刀を使う場面が終盤まで出てこないから、終盤の「果たし合い」の場面に向けて、期待感が湧いてこない。松たか子は演技がうまいのかもしれないが、この役柄には何か足りない感じがして、こちらの方も全然盛り上がらず。なんか、がっかりだ。
それと、この片桐という男、自分の信念を貫いているつもりらしいが、半分死にかけの狭間と果たし合いをするのに、師匠のところへこっそり指南を受けにいったり、私憤を晴らすために最後にしたことといい、武士の風上にもおけない自分勝手なやつに思えて仕方がなかった。あの「隠し剣」は、そりゃ反則だろ! というわけで☆2つ。
藤沢作品らしい作品
(2007-05-04)
藤沢周平作品 独特の哀愁が全体に漂って…
いい映画でした。
ただ、ちょっと、『たそがれ・・・』『蝉しぐれ』と混乱する所もあり。
松たかこの演技も あんまり好きになった事はないんですが、
いい演技だったと思います。
方言もいい感じであってましたね。
武士 サムライをただのヒーローとして描かない所は藤沢作品のすごい所だと思います。
武士の階級制度ならではの 苦悩がいつもきちんと描かれています。
武士道
(2007-03-30)
演技は素晴らしいと思います。
内容ですね。
藩の家老を、自分の価値観から見て気に食わないからといって暗殺なんて、武士としてあってはならないと思います。
武士とは上のものから「死ね」と言われれば「承りました」と黙って死ぬものです。武士とはソルジャーであり、私怨や感情に流されてはならないはずです。しかも、剣の道を究めた者が・・・。
また、謀反者の妻女が夫の命乞いを願う活動をするなんて、しかも自分の貞操を引き換えにって。現代人の価値観からは、何の違和感もないのでしょうがちょっと信じられない話です。
なんだか安いドラマのようで感情移入できませんでした。
爽やか
(2007-02-24)
完璧なまでの勧善懲悪・理想主義、予定調和なストーリーを鑑みても、観ていて気持ちのいい爽やかさのある映画だった。山田洋次監督の撮る映画の一番良いところは、なんといっても分かりやすさだと思う。この幕末武士・三部作においても、変に肩肘を張らず、あくまで視聴者がすんなりストーリーに入り込めるように、さりげなく話の筋の手ほどきをしてくれている。だから、観る者はいつも緊張することなくリラックスして映画を観られる。ちょっと油断していると、話の筋が見えなくなる映画が多い昨今、こういう観る者に優しい映画があってもいいと思う。
永瀬正敏の朴訥とした佇まいと松たか子が一途な健気さが、露骨なのに嫌味じゃないのは、二人が役にバッチリとハマっていたからだと思う。主役の二人のハマリ具合も、この三部作を観るときの一つの着眼点だと思う。