主人公と同じアクチュアリーです。
(2008-05-12)
主人公と同じ職業ですので自分の老後がどう描かれているかに興味があって見ました(原作の設定は法律家でもっと若い女性とよろしくやっています)。2度映画館で見て最後の主人公の涙の意味が私なりにわかりました。主人公は自分の人生が何の意味もないと感じ、全編を通して怒りを抑え続けています。このあたりの演技がジャックニコルソンのはまり役です。最後に辛抱に辛抱を重ねて自分の娘の結婚式で、祝辞を述べます。娘の家族ときたら我々が見てもどうにも賛成できないような家族です。どれだけ辛抱して祝辞を述べたか。祝辞のあとトイレに駆け込んで一気に用を足します。その後フォスターチャイルドからの手紙を読んで人生の意味を知ります。自分は報われなかった人生であったと思っていたが、本当は人に何をしてもらったかではなく、何をしてあげることができたか、ではないかと。彼は娘が望む結婚を賛成してあげて娘もその夫の家族も幸せにしてあげれたのです。母にも薦めました。
今出会えてよかった。転ばぬ先の杖。
(2008-03-22)
本作は、我々日本人も真っ青の、
会社一筋に生きてきた平凡な男が定年後に味わう悲哀を、
リアルかつユーモラス(むしろブラック・ユーモア。)に描くものです。
あるいは、会社人間にとっては究極のホラー作品かもしれません。
保険会社を今まさに定年退職したウォーレン(ジャック・ニコルソン)。
盛大なお別れパーティーを皮切りに、輝かしい第二の人生が始まるかと思いきや、
後見しようと目論んでいた後任者には煙たがられ、
キャンピング・カーで二人旅に出ることを心待ちにする老妻の言動にはイラつかされ、
何より最愛の娘は、自分の嫌う男と愛し合い、結婚しようとしている。
そして、ある出来事をきっかけに、ウォーレンは疎外感を募らせるようになる…。
小さな手抜きやすれ違いも、何十年も積み重ねているうちに修復不可能になってしまう。
月並みですが、仕事と家庭のバランスを大切に、ということでしょうか。
蛇足。ウォーレンが自宅のトイレで身勝手に振舞う(笑)シーンは、
怪作「ウルフ」(ミシェル・ファイファー共演)を意識しているような…。
トラジコメディ(悲喜劇)
(2008-02-15)
シュミットは仕事一筋、リタイア後の人生設計など何もなかった。他人を傷つける事を嫌い、自分を抑えることで平坦な人生を歩んできた彼は人生の岐路に立たされる。
一見ガチガチのヒューマンドラマのような展開だけど、アレクサンダー・ペイン監督の前作「ハイスクール白書」を観た人はそう思わなかったはず。
「アメリカン・ビューティー」は心を解き放った大人たちが、家族を犠牲にして、自分の人生をやり直す物語だった。
「アバウト・シュミット」は同じテーマ性を持ちながら、結局、シュミットの生き様に何の転換も起らない。
旅に出たシュミットは人生を変えるポイントに出会うのだが、すべて裏目に出てしまう。
こんなにも主人公にふさわしくない物語なのに、憐れで物悲しいはずなのに、何故か、おかしいのだ。
そこに流れている空気感がたまらなくおかしい。ジャック・ニコルソンのなりきりっぷりもおかしかった。
前作同様、共同体で生きられない人間達の悲喜劇というのが監督の意図するところなのかもしれない。
「フォーリング・ダウン」の主人公のように社会をはみ出すことも出来ない市民性にペイン監督らしさを感じる。
エンディングもどちらかというと物悲しさがより伝わるものだった。
アメリカ文化の一側面
(2008-01-12)
この映画を十分に理解するためには、実はかなりの知識が必要。そもそも、ネブラスカ州オマハがどういうところかを知っていなければ全くお話にならないのだが、『生きる』はもちろんのこと、『マラットの死』なんかもネタとして使われているので、中途半端な知識しかない人が観て楽しめるわけがない。デイリークインがネタ元だったりする場面や、実在の企業や団体も使われていて、実はアメリカ中部の文化的背景が満載の映画なのです。
ついでながら、この映画はFox TVの人気アニメ『ファミリーガイ』なんかでも例の入浴シーンがネタとして使われていたり、米国人との普段の会話の中でも言及されることがあったりするので、アメリカの知識階級の間ではかなり広く知られていて、日本での受容のされ方とはかなり異なる映画であるということは知っておいた方が良いと思う。
日本版で英語字幕がないというのはかなりのマイナス。本当に楽しみたい人はアメリカ版を購入しましょう。リージョンが問題になるかもしれませんが。
ラストシーンの涙。
(2007-12-16)
ラストシーンが何を意味するのかずっと考えていたのだけど、ようやく分かった気がした。
あくまで、個人の感想です。
主人公は定年退職して以来、ずっと周囲の人たちとの距離感を掴めずにいた。
もしかしたら会社人間だった頃からずっとそうだったのかもしれないけど、組織にいることでそれが保たれていた気がする。
思いがけず妻までをも失ってしまい、彼は迷走を始める。
周囲の人たちはけっして悪い人ばかりではないのだけれど、主人公が警戒しすぎたり、甘えすぎたりすることで次々と失敗を重ねていってしまうのだ。
社会からすっかり取り残されてしまった夜、川のほとりに停めた独り身には必要以上に大きなキャンピングカーの屋根の上で彼はようやく「分かった気になる」。
いまこそ自分は正義のために生きるべきである、との確信。
それは愛娘を、自分の理解できない価値観の人間から守ること、である。
いまここに自分が生きている意味が理解できた、そんな朝だった。
しかしその目的は、したたかな人間たちに巻き込まれてついぞ達成されることはなかった。
人々の生活は想像以上に多様で、人間臭く、そして思いのほか豊かでもあった。
娘が彼女なりの幸福を手にしようとしていることを認めるほかはなかった。
娘の結婚式では心ならずも感動的なスピーチを、まるで組織にいたときと同じように、周囲に気を遣いながら成功させてしまう。
本当にこれで良かったのだろうか。
なんだか自らけむに巻かれたような気がして彼はひどく疲れ、荒れた我が家に戻ってくる。
留守中溜まっていた手紙の中にアフリカの少年の絵を見つける。
彼が涙したのは、組織だの、社会だの、そんな複雑でややこしい世界で何とか生きてこようと努力してきた自分にくらべ、アフリカ大地の貧しい少年の描いた世界が、あまりにもシンプルで、そして幸福に溢れているかをまざまざと見せつけられたからであった。
さんさんと陽が降り注ぎ、描かれた親子はぐしゃぐしゃに表現されるほどの固い結びつきで手をつなぎ、笑っているのだった。
自分がこれまでの人生でやってきたことはいったい何だったのだろう。
そしてその少年は、自分の幸福を願っているのだという。
幸福とは、いったい何だったのだろう。
自らの人生への後悔と娘が作り出した新しい家族への喜びが混然と溢れてくる。
そういう涙であったような気がした。
名作である。