コッポラ。
(2008-03-25)
公開当時映画に興味を持ち始めた中学生であり、公開前の宣伝や評判など今とは違って少ない情報を見聞きしては興奮していたことを記憶しています。満を持してロードショーを友達数人と見に行ったのですが、この映画の深遠はよく理解できず、映画の前半にあるヘリでの空爆シーンが一番印象に残った程度です。その後沼から迷彩メークを施したウィラードが出てくるこの映画の象徴的なシーンは当時から強く記憶に残っています。理解出来ない中でも単なる戦争映画という枠を超えた不思議な印象を受けた映画として記憶に留まっています。コッポラの選定する音楽のセンスも抜群で冒頭に流れるDOORSのTHE ENDもサントラがと思った程映画にマッチしていました。その後、立花隆の地獄の黙示録読本を読むことで更に理解が深まった感じです。字幕スーパーの日本語訳の不適切さの指摘があり、更にはその台詞が考え抜かれた末の重要な意味合いを持たせた台詞であることなどこの映画に「闇の奥」を下敷きにしながらもいくつもの物語が絡み合う非常に複雑な映画であることを改めて思い知らされたました。映画監督としてはもちろんシナリオや編集などその卓抜した才能を持つコッポラならではのすばらしい映画です。
「戦闘」という行動の奥底にあるもの
(2006-03-22)
「戦い」という古来から我々を悲しませ、かつ他者に優越するという契機を与え続けてきた人類の普遍的な行為がある。
ヴァルキューレの騎行をバックに、敵兵をゲーム感覚で掃討する行為に対する「嫌悪」も、敵兵が自分の行為でアリのように潰されていくのを眺める「快感」も、それを好むと好まざるに関わらず、確実に我々の意識の中に宿っている。
だが「戦い」というフィールドで生き残ろうという意思のある者に、「悲しみと嫌悪」に浸っている暇は無いのだろう。
カーツ大佐は、べトコンとの戦闘が原因の心理上の変異や、自身が下した独自の有効的な指令が軍に背いたと見なされたことに対する欺瞞と軋轢のために自ら軍を捨て、現地で兵を招集し、凄惨かつ純粋な「戦闘」を繰り広げる。ウィラード大尉は、彼の抹殺という軍の「お使い」を任務とし、川を昇り、やがてカーツと邂逅するが・・・。
この作品は、個人(カーツ)の純粋な観念と、組織(軍)の矛盾に満ちた規範との軋轢をメインに描いた近代的な戦いの記録である。そして純粋であるがために身も心も疲れ果て、自らの眠りと、新たな強者(ウィラード)への再生を切望する「王」の生命の原則に従った原始的な物語でもある。
最終的にカーツの観念と真意を汲み取り、彼を手にかけるウィラードの表情に低劣な殺人者の表情も、軍の「使い走りの小僧」のような脆弱さも無い。
そして最後に群集ひれ伏させ、眺め渡す表情には、「殺す」行為が、確かに人々を動かし得る「神聖性」を帯びていた時代があったのだということを我々に突き付けずにはおかない恐ろしい「真理」が宿っている。
それこそが、カーツが抱えていた地獄であり、ウィラードが引き継ぎ、「もう二度とご免だ。」と言わしめた地獄でもあり、コッポラ監督が我々に突き付けた地獄でもあるのだろう。
コッポラ監督の完璧な異能を象徴する作品 地獄の黙示録2作
(2003-11-30)
ヴェトナム戦争従軍世代のコッポラから描いた作品。公開当時から物議を醸し、当初の予定を1時間近く短縮しての公開は戦場の狂気とファシズムをカーツ大佐をとうして描き出す。公開から十数年へて監督編集版として再度リリースされた作品には、インドシナ半島の植民地政策のかかわりを象徴するフランス人入植者のシーンを加えて、たんなる戦争映画という枠を超えた監督の意図が明確に読める作品として甦っている。
完璧主義者コッポラの面目躍如たる作品の一つにして二つ、心して見比べてください。
ベトナム戦争映画としてでなく。歴史的偉業
(2003-10-29)
何度この作品を見たことだろう。
幾度見返し観てもこの力強さは失せない。
コンラッドの「闇の奥」をモチーフとしている
ことは知っていたし、読んだ。しかし、本作を先に見ていた。
僕はこの作品をいわゆる「べトナム戦争モノ」として
どうしても見れない。
僕には、この映画はどうしても原始への誘惑に見えるのだ。
ウイラードが遡ってゆく河。
遡るほどに世のすべては遠のき、混沌が立ち現れてくる。
この力は、今の僕らをつかさどる「人工性」から解き放つ
モラルもルールからも開放される広大な開放感が見れる。
芸術だなんだとの議論からも遠く離れて圧倒的な魅力を放つ
この映画は、一面的な解釈から解き放たれている。
だからこそ「アポカリプス」は「ナウ」なのではないだろうか。
魂の奥底から味わえるぞ
(2003-03-18)
監督のコッポラは、名作「ゴッドファーザー」を作り上げた人でもあります。なにより、「地獄の黙示録」でも「ゴッドファーザー」でも如実に感じ取れる事は、コッポラが、両作で主演しているマーロンブランドの演技を、まるで唯一無二の宝物の如く大切に取り扱っている点です。ブランドの演技は、映画の編集作業に於いて、コッポラの魂と強く共振する最良の部分のみが切り取られてあるかの様です。この二作は、おそらくコッポラという表現者にとって最も重要な作品であり、いつの時代にあっても不変である人間の本質を先鋭かつ重厚に描き切ったものです。そして、ブランドは、周知の如く、「ゴッドファーザー」に於いて二度目のアカデミー主演男優賞に指名され、次の「地獄の黙示録」にあっては、まさに塊??の俳優キャリアの絶頂に到達しています。ブランドは自伝に於いて、「地獄の黙示録」で演じた「カーツ大佐」の役ほど自己を忘れて没頭出来たものは無かったと回顧しています。
「地獄の黙示録 特別完全版」では、映画の後半に於いて見られる「カーツ大佐」のシークエンスが新しく追加されています。カーツは、まばゆい朝日の中、多くの子供達に取り巻かれながら登場します。これは、闇の中でカーツが苦しく独白する場面と共に、映画「地獄の黙示録」の核心を成すものです。ここで、カーツは、人間は自己の内に潜む如何なる要素に気付かなくてはならないのかを、明らかにしようとします。これは、長い映画の歴史の中でも、おそらくは空前絶後の象徴性に富んだ表現となるものでしょう。
「特別完全版」は「オリジナル版」とは相違して、三時間半の長丁場の映画ですが、忍耐強く味わう価値があります。マーロンブランドが、俳優としての自らの才能のすべてを集中させて演ずる「カーツ大佐」の場面は、コッポラの映画作家としての問題意識の至上の表われとなっているものです。
卓越した映画作家が、生涯で二度と繰り返す事が出来ないほどの情熱を傾け、そこに、不世出の名優が自己の経験を総動員して出演した「地獄の黙示録」は、 ただ一度観ただけで、その真価を感得するという事は、なかなか難しいものですが、折に触れて何度でも繰り返し味わうことの出来るものだと思われます。