ブシュミは多趣味
(2008-06-30)
掛け値なしで面白かった。コミックの実写版ということで、製作は難しいのではと思うが
良く出来ていた。古典作品の「バーバレラ」や邦画の「アイデン&ティティ」もそうだが、
実写版にもなかなかのものがある。要は、脚本・監督・俳優の質の高さが大切なのだろう。
素直に楽しめば本当はそれで良いのだろうが、タイトルとラストシーンが重く心に残った。
ひょっとして、主人公のイーニドは孤独のあまり最後に死んじゃったんじゃないか!?。
かなり突飛な発想だが、以下のように勝手に解釈して、自分なりに納得した。
老人がいつもベンチで何かを待っている。尋ねると「みんな知らないが必ず来る」という。
ひょっとしてこれはサミュエル・ベケットの不条理劇「ゴドーを待ちながら」ではないか?
芝居では「ゴドー」すなわち「ゴッド(神)」は来ないのだが、ここでは最後にやって来る。
神が迎えに来たということは、結局老人は神に召されたのだ。そして主人公もその後を追う。
文字通り「ゴーストワールド」に旅立ったのだ。 (きっと、みんな賛同しないだろうなぁ)
うまい!!★5つ
(2007-02-21)
そこまで有名なタイトルでもないのに根強い人気があるのに納得
『アメリ』が名作なら『ゴーストワールド』も間違いなく名作
大半の人間は『ビッグマック』と『ナイキ』で満足なんだ
だけど私は違うみたいな
服装のセンスも抜群で発言のセンスもこれまた抜群
こいつの人間味を味わう話なのでストーリーがどうのとかほんまにどうでもいいのにストーリーまでついてくるから凄い
二人の女の子がいて魅力が五分五分にきっぱりわれるように選んだキャスティングも完璧
彼女はどこへ行き着くのか
(2006-11-06)
人間なんてバカな奴ばっか、自分が一番素晴らしい、人生なんて適当…なんてひねくれた根性を持っている皆さん。この映画にもそんな少女がいます。それがイーニドとレベッカ。
高校を卒業してもやりたいこともなく、本当に、人生なめとんか!?と喝をいれてやりたくなる彼女達。そんな2人がダメダメ男シーモアと出会います。しかしイーニドは次第に彼に惹かれていき…
思春期の葛藤、大人になりきれない彼女達。しかしレベッカは段々、現実を見つめるようになり、大人にならないのはイーニドだけになっていきます。ブシェーミ演じるシーモアのダメさも最高です。
どうしてこの映画をこんなにいいと思うのか、それは私がイーニドと似ているからだと思う。
例えば熱血な人を見ると私は「バカじゃないの?」と思ってしまう。絶対にイーニドもそう思うに決まっている。
こんな性格の悪い主人公イーニドはきっとあなたの心にも住んでいることでしょう。
そして彼女の夢は適当にバスを乗り継いで見知らぬ街に移り住んで自分のことを誰も知らない状況でまた暮らしていくこと…。あのときバスに乗ってどこかへ行ってしまった彼女はいま、
どこで何をしているんだろう?彼女はどこへ行き着くんだろう?
変化に直面する少女たち
(2006-05-05)
自分が思っているほど大人になりきれていない少女イーニドとその親友であるレベッカ。高校を卒業したばかりの二人は、この時期の若者に特有の「行き場も意味もない苛立ち」から自由になれない。何もかもを見下す二人は、いたずら半分に、出会いを求めて新聞に広告を出した中年男性シーモアを呼び出し、尾行する。面白半分にシーモアに近づいた二人であったが、イーニドだけは、シーモアに人としての魅力を見つけていくのであった。世間を迎合せず、自分を貫いているシーモアに惹かれつつも、この街で彼と過ごすことでは「自分」になれないイーニドが選んだ決断は…。
始まりの10分で、何様俺様の態度を取り続ける生意気な二人にイライラさせられます。何でもかんでも自分で出来ると勘違いしていて、人生を知り尽くしていると思い上がっているような10代の少女たち…。そして、このふてくされている二人が愛おしいのです。特別な誰かにならず、等身大の10代の少女になりきったソーラ・バーチとスカーレット・ヨハンソンの演技に釘付けにさせられました。特に、自分の生き方を見つけてドンドン大人になっていくレベッカと、取り残されるイーニドの変化は見ものです。
どこにでもありそうで、どこにもない。それでいて、誰の胸の中にも存在しそうな話として綺麗にまとめた作品だと思います。
POIGNANT REAL WORLD
(2005-08-24)
2001年夏、アメリカのどこの街角でもテレビで「Jaan Pehechaan Ho」など放送されているわけもなく、2001年秋、アメリカのどこの街角でも忘れされれたような70年式のバスが来るわけもない。しかしスカーレット・ジョハンソンとトーラ・バーチのPOIGNANTなOFF BEAT COMEDYは、明らかに同時代の思春期晩年の等身大の一例にすぎない。スティーブ・ブシェミのLOOSERぶりは、明らかに同時代の青春を失ったダウンタウンのオフィスのアカウンタントのタイクツな日々の反映だ。チャールズ・C・スティーブンソンがじっとベンチに座り来るわけのないバスを待つのもまた、同時代の老人ホームの芝生の庭で来るはずのない何かを待つあの姿そのものである。
夫々がとてつもなくタイクツで、馬鹿らしくユーモラス、しかし時々美しい。そして、結局一番最初にこのアンニュイなコメディーから抜け出す保守的なジョハンソンも、それはただ繰り返され、消費される、特徴のない日常に同化したにすぎない。
またしてもちらつくフレンチ・ヌーベルバーグ、特にジャック・リベットやエリック・ロメール的な分解と再構築の作業の手段に多くを負うこの作品の舞台を、監督のテリー・ズィゴフは、それを「失われゆく西洋文明社会」と呼び、ブシェミは「顔のないどこにでもある街(の物語)」と語る。多くのアメリカの、所謂中流白人にとって、これはゴースト・ワールドではなく、リアリティーそのものであることこそ、この物語の最も笑うべきところなのか・・・。